Tホール。
Tホールに行くと店長が近寄ってくる。
おお来たのか~今日も打ってきや~と、景気の良い言葉をかけてくれる。
まずは羽もの。
当時は平台なんていう言い方をしていた。
羽の開閉に影響するチャッカ―に球を入れると上部の役物の羽が開く。
そして、役物の中のVゾーンチャッカ―に球が入ると大当たりだ。
当時はハネモノには終了というルールがあって、一定量の出玉が確認できたら打ち止め終了となる。
Tホールは大体8000円程度の出玉で打ち止めだ。
Tホールは毎日1~3台ほど優秀なハネモノがあって、店長がまずその代を打たせてくれた。
8000円の勝ちからスタートする。
なんでこれをさせてくれるかというと、その勝ち分を必ずほかの台で使うからだ。
私はほとんどの場合スロットで使っていた。
当時のホールは、玉は新要件機なんて言われた時代で、初の液晶を搭載した麻雀物語などが出始めたころだ。
ハネモノも新要件となって、今までは8Rだったハネモノが16Rとなり、要は出玉が倍になる可能性があって、その分Vゾーンに入りにくい台が増えた。
Tホールの新要件機のハネモノ第一号はサーカスというハネモノで、返しが15発のフルスペックなので、16R を完走すると、約5000円の出玉だ。
連ちゃんすると即打ち止めというハイスペックのため、やっぱり釘は激シブだった。
新要件機でリバイバルで登場したのがビッグシューター。
同じように16Rの新要件だが、パンクしやすく作られており、旧要件時代のビッグシューターより面白かった。
スロットは世の中は3号機の時代。
人気の機種はユニバーサル系の機種で、コンチネンタルを筆頭にユニバ系のスロットがパチンコ店を席巻していた。
しかし、コンチネンタルは、前代未聞のセット打法【4枚掛けでビッグフラグ成立】というセット打法のため、撤去や対策部品の導入などで大わらわになった。
リーチ目を多数持つということで玄人好みの機種となるスーパープラネットが新台で発表されたのもこのころだ。
裏モノ化しなくても面白いと言われ、リーチ目が多数あるのでメダルを3枚握ってホールを巡回するハイエナもたくさんいた。
そんな時代だったがTホールは田舎の駅前の超小規模なパチンコ店で、なおかつ郊外大型店を持つグループの小規模店舗だったので、その大型店が取り外した古い機種が導入されることが多かった。
私がTホールに行くようになったときは3号機全盛時代で2号機の撤去が進んでいる時代だったがこの店舗には2-1号機要は2号機の初期のころの機種である【ベンハー】が2シマ入っていた。
ベンハーは、その後4号機のリズムボーイズで悪名高くなる大東音響がリリースした機種で、当時姉妹企業だった高砂電機がリリースしたウィンクルと同じ機種だった。
ベンハーはフラグが立つと、2個目のリールがビタどまりするように作られていた。
Tホールのベンハーはを打ち込んだ私は【ズルッ・ビダッ・ドバーン】を合言葉に、打ち止め終了にして得た8000円を握りしめて挑戦していた。
この時代は成立フラグというのを非常に大事にしていた時代だと思っていて、ボーナスフラグ成立したら揃えるまでフラグが立ったままというのはストック機以外では今でも当然だと思うが、この時代はボーナスフラグだけではなく子役フラグもそろえるまでフラグが立ったままだった。
このベンハーの場合、ベルフラグとシングルボーナスの王冠は、目押しをしないとそろえることができない子役なのだが、成立ゲームでそろえなくてもフラグが残る。
また、この時代は何かのフラグが成立していて同時にほかのフラグが成立するのはボーナスフラグの成立によって、リーチ目の子役成立、シングルボーナス成立以外複合してフラグが成立しない仕様だった。
だから、ベルフラグに気づかずに帰るおじさんが多数いて、私はカニ歩き1枚掛けでまずはフラグ判別した。
シングルはボーナスゲームが1回だけ発生するゲームで、この当時でもアラジンやコンチ3でシングルボーナスの集中という大爆発するタイプのスロットもあった。
ベンハーのシングルは集中役が無くおまけのボーナスではあったが、レギュラーやビッグが成立しているときに告知役としても成立した。
ボーナスフラグが立っているときのシングルは、JACゲームが外れるようになっていて、シングルボーナスが外れると興奮したもんだ。
ベルはベンハー・ウィンクルの最大の面白いところで、ベル役をそろえた次のゲームで子役集中ゲームの抽選を行う。
これに当選した場合、次のゲームで子役が成立すると、右上の目押しメーターなるLEDが全点灯する。
そうなると約200枚ほどをオヤジ打ちで獲得できてしまうフルーツゲームに突入する。
シングルとベルはよく落ちていたので2シマ廻れば2つくらい獲れて、ベルはタイミングが良ければそのままフルーツの集中にはいったもんだ。
ベルは、ボーナスの後1G目にかなりの高確率で成立するということもあって、
BIG→ベル→フルーツ集中→ボーナス成立→ベル→フルーツ
というループに入ると一気にメダルが増えるというゲーム性だった。
当時は8枚交換が主流の時代でも1時間に4万円程度は出たから6号機全盛時代の今でも出方は最強クラスだろう。
良いことばっかり書いているが、なかなか勝てなかった。
羽根モノの打ち止め分はしっかりホールに戻していたと思う。
バニーガール
私の行きつけホールは地元の駅前にあったTホール。
友人は少し離れたHというホールによく言っていた。
これは友人が勤めているところのすぐ近隣ということで会社帰りにいつもいっていたようだ。
その店も零細店舗で、3号機全盛時代にいまだ活躍していたのが2号機の人気機種バニーガールだ。
こちらのバニーガールもフルーツの集中という役があって、ベンハーのようにボーナス以外でも楽しめる機種だった。
まあ、お互い勝ったって話をほとんどしたことがないのだが。。。
私がスロットを始めたころはこんな時代だった。
パチスロ青春日記
Tホール
当時は世のパチンコ屋さんは10時開店が普通だった。
ほとんどどの店も10時に開店。一斉にマイクアピール
【いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。はい。朝一フィーバー●●番台!おめでとうございます!モーニング無制限GETです】
といったような派手なマイクアピールがどんな大型店でも当然のようにやられていた時代。
スーパープラネットを打ち込みまくっていた僕。
たまに庭にしていない店に行ってもまずはスープラがあるかどうかを確認する日々だったが、スープラも時代とともに古くなってきて、設置台数も少なくなりつつあった。
パチスロのほとんどが4号機に移り変わってきた94年。
3号機で生き残っているとしたらスープラがほとんどで裏モノ化した機種はほとんど消えていた。
それでもたまにガッツリと裏モノ3号機を入れて営業していて、警察の検査が入って1か月の営業停止処分をくらうお店なんて言うのも結構あった時代だ。
土星を好んで打っていた私にはカエルはちょっと違和感しかなかった。
4号機になって登場したニューパルサーはスーパープラネットと入れ替わりで導入される店舗が多かった。
Nホール。
行きつけだったTホールは閉店してしまい。店長は新装した本店のTホールの店長をしている。
たまに顔を出しては出ないイヴを打ってはたぬ吉くんに。