面白い話

パチスロ青春日記Vol.2~モーニング編~

Tホール
当時は世のパチンコ屋さんは10時開店が普通だった。
ほとんどどの店も10時に開店。一斉にマイクアピール
【いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。はい。朝一フィーバー●●番台!おめでとうございます!モーニング無制限GETです】
といったような派手なマイクアピールがどんな大型店でも当然のようにやられていた時代。

当時玉の方は、フィーバーの保留玉連荘機を主流に、権利モノといわれる機種も流行っていた。
有名なのはニューヨーク。

私の先輩はモーニング無制限(朝●人まで、初あたり先着で無制限などのサービス)を狙って朝一からよくニューヨークを打ちに行っていた。
昔のパチンコは、1回交換やラッキーナンバー(777やオールフルーツあたりで無制限など)などの制度があり、おまけに交換率があって、4円で借りて2.5円で買い取ってもらうくらいの交換率で、その交換率に合わせて釘調整をしていた。
なので、無制限を早いうちにとれれば勝ちが確定すると言えるレベルだった。ニューヨークはこの時代にしては珍しく連荘性能は無く(あったとしても緩かったと思われる)、そのため安定していた機種で、無制限次第で勝ち確定ができるような機種だった。
とはいえ、玉の方は連荘機全盛。麻雀物語や三共のフィーバーレクサスなど、保留玉連荘機能が当たり前の時代だった。
スロットは3号機全盛。ユニバ系のコンチネンタルと、コンチネンタル3が大人気。
CS-90というコインセレクターのバグを突いたセット打法(4枚掛け打法)の発覚によってユニバ系が全滅になった時代だ。
実はユニバ系のスロットは4枚掛けセット打法の前に世界全滅打法という多機種で使えたセット打法が存在した。
当時は2号機から3号機へと要件が変わったのはユニバ系のせいだとまで言われたほどだ。

世界全滅打法とは、1枚掛けで第1、第2リールを止めBIG絵柄のテンパイの方向に合わせて、1枚か2枚メダルを追加しながらビタ推しでBIGをそろえられるというキズネタセット打法です。
当時のユニバーサルは、プログラム基盤は同じで、ドラム絵柄とパネル(音楽など)を変えただけの姉妹機種を各メーカーから出していて(当時は1メーカー2機種までという制限があり大手は子会社を作って2機種規制を逃れていた)、そのためこのセット打法が発覚したことでユニバ系が全滅した。当時はユニバ系はスロットを席巻していた一台メーカーだったため世界全滅といえるほどのインパクトを残したセット打法だ。

そんなセット打法を出したにもかかわらず、新要件機となった3号機でさっそくまたやらかした。それが4枚掛け打法だ。
これは、メーカー自らが裏モノ化するのに関与していたらしく、瑞穂(現ミズホ、mizuho)がCS-90というコインセレクターを使って連荘を誘発していた。
セット打法は、そのセレクターのバグによって生み出されたセット打法だ。
やり方は超簡単で、3枚投入してレバーON。その刹那に1枚投入すると4枚目が飲み込まれる。そうすると、BIGフラグが成立するという、世界全滅打法より技術介入度の低いセット打法だ。

3号機が出たばかりで、それでいてやはりトップシェアを誇るユニバーサル系の送り出したコンチネンタルは人気機種でどこの店にも入っていた。
また、よくわからないけど連荘するということで大変人気で、当時で10万円勝ったとか(7~8枚交換の時代だから、7000~1万枚ほど出ていた計算になる。)パチンコ店が荒くなってきた時代だ。

どこにでも入っているのでこの4枚掛け打法が、鉄火場感を演出してしまった。

そんなこんなでユニバーサル系は一時的にスロット業界から姿を消すことになる。
その後はユニバーサルという名前はメーカーが裏モノ作る代名詞みたいになってしまったのでアルゼと名を変え、その後名機になっていく花火シリーズや4号機でも勝てると認識させるに至る技術介入機クランキーコンドルでリプレイ外しというその後の4号機に大きく影響する機種を登場させ、4号機でも大きく勝てると認識させるに至った大花火やアステカ・ワードオブライツなどを登場させることになる。

話は戻してそのコンチ1の時代。

世は、2号機から3号機へと移り変わり、そもそも2号機時代でさえ、1.5号機で採用されていた吸い込み方式(今でいえばストック・天井搭載機に近い)が禁止され、新しく認められた子役の集中はあまり流行らなくてパチンコ機に客を取られかねない時代に、より抑えた制限の3号機時代が到来する。
結果的に裏モノ化していたとはいえ人気絶頂のコンチにキズネタ発覚で、この先どうなっていくのか不透明さだけが残った時代。

パチンコ・パチスロ店は3号機時代はモーニングというサービスで朝一の客を攫っていた。

スロットのモーニング

簡単に言えば、朝一、(ほとんどの場合は)BIGのフラグを成立させてある台がひとシマに何台かある状態から朝一はスタートすることで、朝並ぶと良いことがある(BIGスタートから始められる可能性がある)を演出した。
パチンコの方は朝○名様までの大当たりは終日無制限などのサービスが主流でしたがスロットは大当たりをもらえるということで当時はかなり人気のサービスだった。

そんな時代に登場したのがスーパープラネット

多数のリーチ目搭載、そして、なぜかボーナス後はよく子役に当選するというメダル持ちがいい機種だった。
(その後この子役当選についてはボーナス後数ゲームは、高確率で当選するということで3号機では禁止になった子役フラグの集中に該当すると言われた。)

多数のリーチ目搭載というのは時代に合っていたのか老若男女問わず人気となって、プロは裏のリーチ目で捨てて行った機種を探し、一般の人はメダル持ちがいいので長く遊べて、アベックなどで来店してもメダル持ちがいいので横に並んで細々と遊べた機種でした。

私がよくいっていたパチンコ店Kは、行きつけのTホールの3倍ほどの大きさだ。
場所的には1㎞程度しか離れておらず、朝一はKでモーニング、昼からTホールというのがパターンだった。

スーパープラネットに初めて遭遇したのはこのパチンコ店Kではなく10㎞離れた駅前にあったKホールというお店。
駅前の小さなお店ではあったが連日満員。パチンコはハネモノとチューリップで8割を占めるようなお店。
スロットは比較的新しい台を導入していて、すぐ隣にあったNというもっと小さな駅前店としのぎを削っていた。

その両店舗に導入された新台がスーパープラネット。
Nは、設置台数が少ないので比較的獲りやすいKに行こうと、前の日に近所の友人の家に泊まりこんでモーニングに並ぼうと。

その癖に若かったからというのもあるのだろうが、前の日に興奮しすぎてほぼ徹夜でマージャン。
朝寝坊して、10時開店の店についたのが9時55分。
あーこりゃダメだ。。。獲れねーや。。。

と、一応スープラの島に行くと。。。1台だけ空いていた。
とりあえず座る。
座ってしまえば、タバコでも置いておけば、店舗内も巡回できるしってことでとりあえず座る。
モーニングが入ってなくても、ずるずる遊べる機種だし、さてどうするかなと。とりあえず座って一服。
そうすると隣のおばちゃんに声をかけられた。

【あんたこの台ダメだよ。昨日ね1箱でてるよ】

と。

当時の1箱はフィーバー台のドル箱に満杯のことを指していて、当時のフィーバー台のドル箱にメダルが満杯だと大体4万円程度。
この時代のノーマルスロット機で4万といえばほとんどの場合上限で、要は一番出たのがこの台だと。
それを聞いちゃうとちょっと萎えるところもあるんだけど、でも、他に空き台ないんだもん。仕方ないじゃん。3000円ほど打って周りの台で空くのを待つくらいしか方法はないよね~と隣のおばちゃんに返答。

軍艦マーチ。
当時はどのお店も開店時間は軍艦マーチが8~9割だった気がする。
パチンコ店で一番熱くなる瞬間だ。
スープラはBIGフラグが立っていたら1枚掛け逆押しで7図柄がリーチする。とりあえず1枚掛けで右側のリールを目押し。7が止まる。
ドキドキするけど、ちょっとここでタバコタイム。空まわしのままタバコに火をつける。
横のおばちゃん。モーニングの傾向を掴んでいるのか、しっかりモーニングゲット。この時代は目押しのデキないおじちゃんおばちゃんもスロットをしていたので押してあげる。
お返しは缶コーヒーだ。
3号機はそのまま廻して放置しておくと勝手に止まるので、自分のスロットもそろそろ止めるか。
隣がモーニングだし、昨日でてるのなら、可能性は薄い。
しかし、昨日でた台だから誰も座んないことを考慮してモーニングを入れてる可能性も大いにある。2台連続なんて粋な演出じゃん?
てことを考えながら中段リールストップ。
ぶるんと止まったのは特徴のある7図柄。
よっしゃ。スープラ初体験1回転目でBIGゲット。
たまらない。

このころ私が良く知っていた機種は2号機のベンハー。
2号機はボーナスゲームは3つボタンを押してJAC図柄がそろうと払い出しというルールだったが3号機からは1ドラムごとにJACゲームというものも可能になった。
スープラはそのタイプで、テンコン・テンコンンといっている間に1ドラムずつ払い出し。
3つ止めて払い出しより微妙にボーナスゲームは早く終わる。ただそれだけのことなのだが。

BIGのボーナスゲーム終了。このころのスロットはボーナスゲーム中の払い出しにほぼ完ぺきな制御が働きどんなゲームでもほぼ同じだけの払い出しで、スープラの場合、JACゲームを1ゲーム短縮できるかどうか(1枚の得)が発生する程度で、ボーナスゲーム中の技術介入度はほぼない。
おまけにスープラの場合、ボーナスゲーム中のJACゲーム間のフルーツゲームみたいなところでフルーツが偏って当選した場合、先述した裏で調整されていたフルーツゲームに当選せずメダルの差枚数を調整する機能があったので、それなりにマイルドな設計になっていた。
だいたい360枚前後ということろだ。当時の交換率で言えば約5000円程度の出玉。

もちろんこれでやめるわけもなく、持ちメダルで遊戯続行。

この時はボーナス後のフルーツの高確率モードの存在など全く知らなかったのだがモードに入ると異常なまでにフルーツが取れた。
スープラの受け皿は本当にBIG1回分で一杯になるくらいの小さい受け皿で、BIG後にフルーツ高確率モードに入ると400~500枚程度までメダルが一時増える。
500枚近くになるともうパンパンで、木の葉積みでサクサクにしてもいっぱいいっぱいだ。

スープラ初打ちにして初BIGのあと、2回目を引く前に、受け皿がいっぱいでどうしようか。。と思っていた矢先に機械の挙動が変わる。
子役が当たらなくなった。それだけではなくなんか、何となく感触が変わった。滑るというか。。。なんかリール制御が変だ。
まだ当時、リーチ目はサンドに貼ってあるシールに書いてあるリーチ目しか知らなかった。チェリー付きのボーナス図柄で右側のボーナス図柄ではさんだ形のリーチ目しか知らない時代。
しかも、よくわかっていなくてほぼオヤジ打ちしていたので、チェリー付きではないリーチ目がガンガン出ていたんだと思う。
それに気づかず挙動が変になったことでBIG図柄を目押し。バコーンとそろう。

BIGが当選するとチリチリと鈴のような払い出し音とともに、諸人こぞりての音楽。
今の時代なら諸人こぞりてを聞いたらシン・エヴァのアディショナルインパクトじゃん!っていう人も多そうだが私にとってはこの音楽はスープラだ。

BIG-BIG間を見ると約100G。3枚ずつ使うし、途中で子役の払い出しがあるとはいえ150~200枚ほど減らすくらいの回転ゲーム数だが実際はほぼ減らさず、いや、むしろBIG直後よりメダルが増えた状態で次のBIGをそろえている。
実際、2回目当選時にメダルを箱に入れているがもう1/3近くまで来てしまっている。
それほどフルーツゲームが熱い機種だったのだ。当時は3号機で禁止されている機能だからメーカーも公表しないし、SNSもない時代だから雑誌でそんな気がすると言っている人が結構いるくらいの怪現象だったが、半年もしたら雑誌が分析・解析して現実に存在していると発表された。また、これを使ったREG時にBIG並のメダルを獲得できる可能性がある、地引網打法なる攻略法も編み出された。(セット打法ではないため、また技術介入度が高いため規制もされず、そのまま放置されていたのも現実だ。やれるやつはやってくれというスタンスだったと思う。)

気付いたらもう15時。
私の台は1箱半出ている。おそらくKホールのスープラでは記録だっただろう。
なんだかよくわからない札が4つほど刺されたのを覚えている。
隣のおばちゃんは粘りに粘って今半箱ほど。モーニングから追い銭していないので十分勝ちだが、なにせ長く遊べるメダル持ちのいい機種だから、1回分無くなったらやめると朝一から言っていて、この時点でまだ1回分も飲まれていない。それでもたぶん設定はそこまで良くないはずだ。
一緒に行っていた友人は朝からハネモノをコツコツ回り3万くらいプラスになっていて、飽きたから、お前の地元のTホールに行こうというので、1箱半で終了。
5万弱ほどの勝利をした。

その後、Tホールのベンハーで勝ち分を全部飛ばしたのは言うまでもない。

Kホールは当時車を持たない若者だった私は簡単に行けるパチンコ屋ではなかったため、地元のパチンコ店Kに通うことになる。
なぜならここは最新機種のスープラとこれまた最新機種でアラジンのライバルといわれたコンチ3が入っていた。
コンチ3にもスープラにも一定割合のモーニングが入っていて、なおかつ全然人がいないのでほぼ100%モーニングが獲れた。
また、毎日行っているのでほかの常連とも顔見知りになる。
そうなると、自分が抑えた台でモーニングが取れなくても、2台とってしまったほかの常連さんが、【あんちゃん、こっちやる?】とか、【コンチ3だけど、モーニングはいってるからやりなよ】と譲ってくれた。もちろん自分が2台とったときはお返しとばかりにその人が獲れてない時にあげたものだ。

しかし、パチンコ店Kのモーニングは大体設定の悪い台に入れてあって、なおかつ、10時開店で交換可能になるのが11時と、徹底してメダルを使わせる方向に行く。
もちろんパチンコ店のやり方に抵抗したっていいことはないのでまぐれ当たり連荘を狙ってモーニングのメダルを消化する。
朝1000円入れているから1000円分だけは交換したくて70枚を数えて先に箱に入れたりしてたな。
あとはメダル持ちがいいからゆっくり打ては1時間は何とかなる。
たまに間違ってREG→地引網打法で100枚ほど増やしてGET→フルーツゲーム→REG分でBIGみたいな感じでさわさわとメダルが増えたら1万円程度で終了。
ほとんどの場合低設定台がモーニングなので見切りをつけるのも早い。
当時は持ちメダルで台移動は禁止だったから、一旦流してから勝ち分でモーニングが入っていなかった台で高設定を狙ったりした。まあ、めったにお目にかかれなかったが。

そんな生活をしていたある日、モーニングで2台捕まえてしまった。
スープラとコンチ3。このころはスープラはかなり打ち込んでいて、様々なケースに対応できる自信があったので、自分はスープラを打ちたかった。
しかしコンチ3は、BIG後そのメダルで間違ってシングルの集中、いわゆるラッシュに突入する可能性もあった。めったにないが。
やはり、その滅多に出会うより、安定したスープラを選んでしまうのが人情だろう。
いつものおっちゃんに。。。と思ったらそのおっちゃんもすでにモーニングを引いている。
その日はいつもより人も少なく、他の常連もいなくて。。。
でもモーニング2台とると、店長にすげー怒られるからなぁ。。。
と見ていたらふらっと、見たこともないおっちゃんが一人入ってきた。
全く知らないおっちゃんだけど仕方ないか。。。

【おっちゃん、この台モーニングはいってるんだけど、おれスープラでモーニングとったからこの台やりなよ。】

と、だってどうしようもないもん。
そのコンチ3は、自分のスープラの裏の島だから見に行かないと様子はわからない。
自分の台の方が大事だからほとんど見に行ってなかった。
BIG分のメダルを消化してしまいそうなとき、2回目のBIG。なんとか遊べそうだなと思ったらいつものおっちゃんがコーヒーを持ってきた。
【あんちゃん。あんたのあげたコンチ3とんでもないことになってるよ?】

まじ?

見に行ったら、すでに2箱目。現状で5万くらいか。。。

自分はBIG2回で、下皿一杯程度この時点でまだ1時間程度しか経過していない。。。何があったんだろう。

モーニングを上げたおいちゃんが、ちょっと来てと、僕を店外に連れ出す。
あんちゃん。マジでゴメン、あのモーニング多分モーニングじゃなくて昨日からラッシュのフラグ立ってたんだと思う。
あのモーニング、セブンラッシュやったんぜ。で、止まらずここまで来ててさ。。。
と、僕に3万円を握らせる。
これは良いのか悪いのかわからないけど若い僕はありがとうとそのお札を握ったまま、スープラのメダルを流して家に帰った。

3万円もらったとはいえ口惜しさがやっぱりあって、お昼過ぎにもう一度様子を見に行った。
そのおっちゃんの台、まだパトランプが回ってて(当時このお店はシングルが30ゲーム以内に3回そろうと10分間パトランプが回るように作られてた。そのためガセでも回っていましたw)すでに4箱目に突入してた。
後で店長に聞いたら30万くらい出して帰っていったってことだったから、今の等価交換なら2万枚ほど出したんじゃないだろうか。

こんな悔しい場面もありながら、よりスープラに傾倒していったのがこの時代。

近隣の店舗で一番出していると有名だったN。
ここに2シマもスープラが入ったと聞いて通うように。
このころには車をかって自由に移動できるようになったことから、仕事帰りにNに寄ったりするようになった。

大体勝てるのは木曜日と金曜日、土曜日はまず負けたな。

仕事帰りに、車内のTVでウリナリが始まるころ、Nに到着する。
今週のマモー・ミモーも見たいんだけど、ドーバー海峡横断部も見たいんだけど、VHS予約してきたからパチンコやろうってな感じで行ってた。

当時は玉の方に結構思考が行っていて、この店にはフィーバーパワフル3が1シマビッチリ入っていて、結構釘も甘かった。
ひとしきりパワフルを打った後、1000円のメダルをもってカニ歩き。
店が大きくて、そして、おっちゃんも多い店だったので夜メシ時間になるとみんな家に帰って人がいなくなる。
そしてスープラは結構裏のリーチ目でやめてある台が多くてハイエナがききやすい台だった。
この週末というのがミソで、20時ころから結構落ちてた。
で、この店は出す店なので、フラグが立って放置してある台は大概設定もよくその後も伸びて1箱くらいは出た。
この店のドル箱はスロット専用の箱で大体2万円くらいで1箱。行きつけのホールのように4万もないけど、週末夜にちょっと内に行って2万円の勝ちなら悪くない商売だ。
少なくとも小遣いに困ることは少ない時代だった。

パチスロ青春日記

パチスロ青春日記Vol.1~2号機編~
パチスロ青春日記Vol.1~2号機編~

Tホール。
Tホールに行くと店長が近寄ってくる。
おお来たのか~今日も打ってきや~と、景気の良い言葉をかけてくれる。

パチスロ青春日記Vol.3~4号機冬の時代編~
パチスロ青春日記Vol.3~4号機冬の時代編~

スーパープラネットを打ち込みまくっていた僕。
たまに庭にしていない店に行ってもまずはスープラがあるかどうかを確認する日々だったが、スープラも時代とともに古くなってきて、設置台数も少なくなりつつあった。

パチスロ青春日記Vol.4~新装開店編~
パチスロ青春日記Vol.4~新装開店編~

パチスロのほとんどが4号機に移り変わってきた94年。
3号機で生き残っているとしたらスープラがほとんどで裏モノ化した機種はほとんど消えていた。
それでもたまにガッツリと裏モノ3号機を入れて営業していて、警察の検査が入って1か月の営業停止処分をくらうお店なんて言うのも結構あった時代だ。

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